1話「開かずの扉」

 中学二年の冬から、下田東弥は不登校になった。それ以来卒業式の日まで、とうとうあの校門をくぐることはなかった。
 盟静高校は多少学力がなくとも比較的簡単に入れてしまう程度の学校だった。校舎は年季が入っており、木造建築のつくりはやたらと雰囲気があって少し不気味だ。木々に囲まれた薄暗い校門を抜けると、噴水や銅像なんかがあって、少し歩くと昇降口になっていた。
「入学初日から遅刻ですか」
 昇降口に立っていた女性教師に呆れた様子で声をかけられて、やはり来なければ良かったと思った。いっそ休んでしまえばうやむやになったかもしれないのに。
 朝と夜の感覚がぐちゃぐちゃで、戻すのにだいぶ苦労した。何せ決められた時間に起きて支度をして、どこかへ出かけるということを一年もやっていなかったのだから。
 時間だけは有り余っていたから勉強だけならそれなりにした。それでも、それなりに、だ。
 一年ぶりに目覚ましをかけた下田は、見事に二度寝をかました。再び覚醒した時には既に入学式が始まる時間を過ぎていて、それでもさすがに初日からサボるのはいかがなものかと思って重い腰を上げてここまで来た。到着した時には既に式は終わっていて、結局下田が入学式に参加することはなかった。
「高校は中学までとは違うの。あなたが中学時代どうだったか知らないけれど、決まりくらい守りなさい。もう小さな子供じゃないのよ」
 教師は腕を組んで説教を続ける。履きなれない靴を脱いで、持ってきた上履きに履き替えながら、下田はそれを軽く聞き流していた。中学までとは、確かに違う。何もかもが違うのだ。
 決まりを守るどころか登校すらしていなかったが、目の前の教師はそれを知らない。 少しは同情してくれだなんて言えるはずもない。
 自業自得だったのだから。今日だって、中学の時だって。
「というかあなた、その髪型は何」
「……イメチェンです」
 教師は下田の髪型を見て改めて呆れ顔をした。基本は黒髪だが、後ろの方に金のメッシュを入れている。右の前髪をピンで止め上げて、反対側の前髪は目にかかるくらいまで伸ばしていた。
「あのね、高校は遊ぶ場所じゃないのよ。勉強する場所にふさわしい格好をしなさい。制服もしっかり着るの」
「でも、この学校校則緩いですよね」
「だからって初日からそんな……」
「あの、これ以上遅くなるのって先生的にはいいんですか」
 じろりと下から教師を覗き込むと、呆気にとられたようで言葉を詰まらせる。わざわざ長い説教を聞きにきたわけではない。本当であればいつものように、昼過ぎまでベッドで寝ていたはずなのだ。
 生意気な、と顔に書いてあるような表情で固まった教師を置いて、昇降口から続く廊下を歩き出す。慣れない木の匂いと音の鳴る床板に、足元がふわふわと浮く感覚がする。今すぐにでも帰って、自分の匂いだけがするあの布団にくるまりたいと思った。
「待ちなさい、あなた! 名前は? クラスはわかるの?」
引きとめられてそういえば、と足を止めた。
「下田東弥。クラスは、わからないです」

 一年B組と書かれたプレートを見上げて、下田は立ち止まる。教師は下田をクラスまで送り届けると、職員室へと戻っていった。扉は自分で開けなければならない。教室内にはこのクラスの担任だろうか、男性の声が響いている。扉にある小さな窓から中を覗き見ると、生徒は皆一様に教卓側に目をやり、私語もせず黙って説明を聞いていた。
 こんなに静かな状況で扉を開けるのはなかなかハードルが高い。せめて後ろ側の扉に回った方がいいのは確かだろう。しばらく立ち尽くして考えていると、突然扉が開いた。
 目の前に立っていたのは担任ではない。担任は少し後ろで不思議そうな顔をしているだけだ。
 真っ白な髪に真っ白な肌。中性的で可愛らしい顔立ちの、眼鏡をかけた男子生徒だった。自分とは違い学ランをきっちりと着こなして、それでもまだ長い袖はその手をぎりぎりまで隠している。
「どうしたの? 怖くないから入っておいでよ」
 彼はふわりと笑ってそう言った。眼鏡が少し揺れて反射する。レンズがオレンジ色に光った。
「良かった。体調不良でお休みしてたわけじゃなかったんだね、下田くん」
 当然のように名前を呼ばれて、何故、と思考が止まる。目の前のこれは誰だ。今まで会ったことがあるだろうか? 雰囲気からして初めて見る気がする。中学にいた人間だったらすぐにわかるはずだ。例え髪を染めて大幅なイメージチェンジをしていたとしても。
 ああ、そうだ。自分だって容姿をすっかり変えたばかりじゃないか、と思い出す。この髪型にしてから外を歩くのは、美容室へ行った時を除けば今日が初めてのはずだ。誰と会っているわけもなく、それでも相手が知り合いだと認識したのであれば、イメージチェンジは見事失敗したことになる。
「本当によかった。ですよね、先生」
「あ……ああ、健康で何よりだよ。じゃあ、席について」
 彼が担任教師に笑いかけると、担任は拍子抜けしたようで、何のお咎めもないまま席へと案内された。
 席は窓際最後尾の、一つだけ空いた机。入り口から最も遠い場所にある。そこへ歩いて行くまでの間、教室内の全生徒の視線が刺さって痛い。それでも全生徒の前で初日から説教されるよりはましだっただろうか。
 担任は下田が席に着いたのをみとめると話を再開した。
「えー、下田が途中から来たので改めて説明しますが、明日から一週間はオリエンテーション期間です。この期間を通して、学校のことやクラスメイトのこと、先輩たちのことなどを知って、慣れていってください。本格的な授業は来週から始まります。高校生活を充実したものにするためにも、ぜひこの期間を活用してください」
 担任は教室全体を見回しながら、明日からの予定を連ねていく。係決めや時間割の説明、校舎案内。交流を深めるため、班に別れて校外学習も行うらしい。様々な交流を経てから本格的な授業へと移っていく。正直なところ、事務的なことはともかく人間関係を構築するためのイベントは気が重い。いっそ来週からの登校でもいいのではないかと考え始めていた。
 一通り説明し終えたところで今日のところは解散ということになった。先ほどまで静かだった教室が、一瞬にして騒がしくなる。長い間集団というものから距離を置いていただけに、とてもじゃないが居心地は良いとは言えなかった。逃げるように教室を後にする。結局入学式にも参加せず、文面で事足りるような説明を受けただけの今日。果たして今日来たことに意味はあったのだろうかと、今更考えても意味のないことが脳を占領した。
「——下田くん!」
 ふいに後ろから声がして、思わず振り返る。そこには先ほどの白髪の男子生徒が立っていた。
「よかった、まだいた!」
 息を切らせながら下田の方へ歩いてくると、昇降口横の階段の下を指して、
「あそこで少し話してもいいかな」
「……ああ」
 帰宅する生徒たちと次々にすれ違う。誰もこちらを気にしている様子はない。
「実は、下田くんが来る前に自己紹介が終わっちゃって。だから、これ」
 手に持っていた何かを差し出される。一見するとただのノートのようだ。まだ新しい。
「明日からのオリエンテーション、みんなのことわからないままだとついていくのが大変かもしれないと思って、名前と自己紹介の内容をまとめておいたんだ。みんな一言ずつだったから詳しくはわからないんだけど、これだけでも話のきっかけはできるんじゃないかなって。あ、おれは月守羽留! よろしくね」
 ノートを開くと、大きく太い文字で名前が書かれており、上には丁寧にふりがなも振ってある。そして名前より小さめの文字で、何が好きだとか、どういう人だとかが一言付け加えられていた。その中には下田の名前もあった。
「俺の名前……」
「先生に聞いたんだ。あ、よかったらそこの下、埋めてよ」
 名前が書かれているだけで、特に情報のない下田の部分を指差しながら月守が言う。
「これね、席順になってるから、教室で周りを見回して照らし合わせてみるといいかもよ。黒板がこっち側で、こっちがロッカー。あと、おれ学級委員長になったからわからないことがあればなんでも聞いて! 他の委員会とかは明日決めるらしいんだけど……」
「……よく喋るな、お前」
 ノートをぱたりと閉じて、前を見る。
「へ、あ……ご、ごめん! こんな一気に喋ってもわからないよね、へへ……」
 月守と名乗った彼は眉を下げて困ったように笑った。眼鏡の奥の瞳は透き通るような色をしていて、淡く光っている。何故だかその瞳に見られると罪悪感に苛まれて、目を逸らした。
「俺が言うのもなんだが、初日から遅刻するようなやつにここまで構う意味がわからない」
 すると月守は意外そうに首を傾げる。
「遅刻するのはしょうがないよ。おれも朝苦手だし。それよりも、たった一度の遅刻でこれからの学校生活でひとりぼっちになったりしたら寂しいでしょ? それにおれ、下田くんとも仲良くなりたいんだ」
 余計なお世話だと口から出そうになるのをなんとか抑えて、もらったノートを月守に突き返した。
「生憎だが俺はオリエンテーションに参加する気も、お前と仲良くする気もない。気を遣わせて悪かったな。これはお前が今後に役立ててくれ」
 そう言って踵を返す。騒がしかった昇降口も落ち着いたようだ。
「ま、待ってよ! 困る!」
「……なんで」
「だって明日は決めることがいっぱいあるし、説明とかも聞かないとわからなくなっちゃうよ」
「俺抜きで勝手にやればいいさ。初めのうちなんて調べればわかるようなことくらいしか説明されないだろうしな」
「そんなことは……」
「だいたい別にお前は困らないだろ」
 言葉に詰まる月守を置いて歩き出そうとしたところで、再び言葉が続く。
「きっと楽しいよ! みんなと外で遊んだり、共通の趣味とか見つけて、お話したり!」
 高校生活に授業以外の何かを求めている者は少なくない。それは部活動であったり、友人関係であったり、あるいは恋愛関係であったり。しかし下田はその全てに興味がなかった。さらに言うなら授業にだって別に興味はなかったが、せめて高校くらい出なければ、という思いだけでこの学校を受験した。
「……俺は卒業できればそれでいい」
 両親にこれ以上心配をかけるのも忍びないし、高校を出ていれば将来何らかの役には立つだろうと思っていた。将来の夢もやりたいことも何一つないけれど、そういう流れだったのだ。仕方ない。多分大学にも行くのだろう。そのために今は最低限の勉強をする。理由はそれだけで十分だった。
 月守の顔を見ると、今にも泣きそうな、あるいは悔しそうな表情でこちらを見つめていた。
「何でお前がそんなに俺のことを気にかけるのかは知らないが、そんなに深刻そうな顔をしなくてもいいだろ。関係のない話なんだから」
「関係あるよ。君がこのまま孤立して、学校へ来るのが辛くなったら、おれが悲しい。せっかく今日来ることができたんだから、明日も頑張ってみようよ」
 深刻そうに顔を歪め、自分こそが辛いとでも言うように声を絞り出して言う。
「どこまでもお人好しだな。別に一人は嫌いじゃないし、辛いから来ないわけじゃないよ。面倒だからサボってるだけだ。だいたいたかがオリエンテーションで大げさだろ」
 それでも月守は心配そうにこちらを見つめる。可哀想とでも思われているのだろうか。それはそれで居心地が悪い。
「面倒ならサボるし、必要なら来る。オリエンテーションなんて別に参加しなくても支障がないと思った。だから俺は明日は行かない。それだけ。わかったか?」
 すると突然こちらに突進するかのように早歩きで歩いてくる月守に、思わず体が仰け反る。胸に衝撃があって、押し付けられていたのは先ほど返したノートだった。
「君が来ないなら、明日の分もノートを取るよ。それから、君のことをクラスで話す」
「……は?」
 出し抜けにそんなことを言われて間抜けな声が漏れた。
「遅刻をしたのは止むを得ない事情があって、本当はとても優しくて真面目な生徒なんだよって言いふらす。なんだか君は見た目で怖がられているみたいだから」
「おい、なんだそれ」
「あと帰り道に捨て猫を拾って可愛がってたって噂も流す」
「嘘じゃねえか」
 月守は色素の薄い瞳をゆらゆら揺らして、こちらを睨んでいた。迫力には欠けるはずなのに、なぜか気圧される。
「わかった、わかったよ。来ればいいんだろ」
 その言葉を聞いた途端にぱあっと表情を明るくして、月守は笑った。
「やった! 明日もたくさん話そうね! 楽しみにしてるから」
 まるで拗ねたこどもにお菓子を与えて機嫌を直すみたいな、そんなやりとりに力が抜ける。どうしてこうも自分に絡んで来るのか理解し難いが、変な噂を流されては困る。
 斯くして下田はオリエンテーションどころか、学校自体、そう簡単にサボることができなくなった。

 とはいえ翌日。休まなければいいだろうという気の緩みから、起きたのは一時限目が始まった頃だった。
 焦るのも馬鹿らしく、しっかり朝食をとってのんびりと登校すれば、ちょうど授業と授業の狭間。休み時間のタイミングぴったりに到着した。既に黒板には係や委員会などの一覧が記載されており、下田が優雅な朝を過ごしているうちに全てが決まりきっていた。
「あ、下田くん!」
 月守はまたぱっと顔を輝かせてこちらに駆け寄ってくる。
「下田くんは保健委員になったからね」
「は?」
「だって勝手に決めていいって言うから、推薦しておいたんだよ」
「なんで」
 黒板を見ると確かに、保健委員と書かれた文字の下に下田の名前があった。
「大丈夫! 保健委員は多分仕事が一番少ないから、そんなに授業とかにも支障は来さないと思うよ」
「いやそうじゃなくて、なんで俺を推薦してるんだ。俺以外のやつらで決めればいいだろうが」
「ほら、居場所は少しでも多い方がいいじゃない。学校に来て、保健室でサボったっていいわけだし」
「お前がそれを勧めるなよ」
 どうやら拒否権はないようだ。会話をしているうちに休み時間は終わり、授業開始のチャイムが鳴る。下田は教室窓側一番後ろへ。月守は廊下側から数えて二列目の最前列へと戻っていった。
「では先ほど話した通り、これから校舎案内の時間になります。各班、先輩の言うことをしっかり聞いてついていくように」
 担任の説明に従い、廊下で待つ上級生たちの元へ皆が散らばって行く。そんな中、月守はまたも下田の席の前まで来て、
「下田くんはおれと一緒の班だからこっちだよ」
 と、教室の後ろの扉付近を指し示した。
 昨日、説明など受けずともどうにかなるといった旨を言い放った手前ばつが悪く、大人しく月守についていく。
 クラスメイトは月守の他に三人いた。このクラスは全部で三十名いるから、おそらく五人ずつで六班に別れているのだろう。結局月守が書いたノートにはまるで目を通さなかったので、名前と顔が一致しない。月守はそれすらお見通しというように、下田の隣に来て耳打ちをした。
「そっちにいる男の子が遠野隆臣くんで、ツインテールの女の子は鈴木深梁さん。もう一人の女の子は田村仁架さんだよ」
 さらりとフルネームを言ってのける。下田は今目の前にいる三名すら覚えられたか不安になるくらいなのに、たったの一日で月守はクラスメイトの名前を全て覚えたらしい。ノートに書いてあったことは恐らく既に月守の脳内に記憶されていることなのだろう。
 よほど記憶力がいいのか、あるいは必死に覚えたのか。
「改めて、新入生のみんなこんにちはー! この班の案内を担当する、二年B組の牧田と」
「……白井です」
「よろしくねー!」
 下田たちも班の輪の中に合流すると、三班担当と書かれた名札を首からぶら下げて、上級生二人が挨拶をする。一人は髪を茶色く染め快活に笑う牧田という男子生徒で、もう一人は大人しそうな、黒髪セミロングの眼鏡をかけた白井という女子生徒だった。
「校内はそこまで広いわけじゃないけど、中学の時よりは色々教室が増えてるんじゃないかな。初めて見る施設もあると思うから、俺たちで順番に説明しながら回っていくね」
 牧田が率先して会話を進める。周りの班の上級生たちの声も所々から聞こえてくる。
「白井、俺たち四階からでいいんだっけ」
「うん。理科室から」
「了解」
 どうやら回る順番は班ごとに決まっているらしい。階段を下る班もいれば、同じ階にある職員室の方へ向かう班もいる。
「じゃあ新入生諸君、まずはこっちの階段を上がって理科室に行こう」
 先頭は牧田、次いで遠野と鈴木がついていく。二人はもう馴染みはじめているようで、牧田とたわいない会話を楽しんでいた。そして田村は白井とぽつぽつと話をしていた。こちらはこちらで波長が合ったらしい。後ろの方を少し離れて、下田と月守がついていく。
 大きな窓がある開放的な踊り場を挟んだ階段を、四階まで上がる。階段を曲がってすぐの教室が並ぶ廊下は、窓から光が差し込んでいて明るい雰囲気が広がる。
 廊下を歩きながら、何か視線を感じて横を見ると、月守は嬉しそうにこちらを見ていた。
「なんだ」
「ううん。来てくれて嬉しいなって思って」
 ふわりと髪を揺らして微笑む。
「そんなに猫のこと言いふらされるの嫌だったの?」
「真っ赤な嘘だからな」
「そうでもないよ、だってきっと本当に捨て猫がいたら、下田くんは拾ってあげるだろうし」
 今にもスキップを始めそうなくらい楽しそうに、月守は言う。
 月守の中で自分は過大評価されすぎている気がする。そこに至るまでの理由が全く見当もつかなくて頭を捻る。思えば初対面の時から既にこうだった気がする。こういう奴なのだろう、ということにしておいた。
 理科室や音楽室、二年生三年生の各教室などを回って、軽く教室内も巡る。やはり古いつくりだからか雰囲気がある。天井のライトは蛍光灯ではなく吊り下げ式の白熱灯で、窓の光で今は明るいが、カーテンを閉めてしまえば薄暗い。窓の光も白熱灯の灯りも届かない廊下の端の方へ行けば行くほど、薄暗く、不気味な雰囲気が立ち込める。
「うちの学校古いから、もしかしたら床とか抜けちゃったりしてね。だから力いっぱい走るのは禁止。廊下は走るなって規則はどこより厳しいかもね」
「え、怖い。抜けたことあるんですか?」
「いやあ、俺はまだ見たことないな」
 前の方で牧田と鈴木が話しているのが聞こえた。恐ろしい話だ。時たま、ぎぃと鳴る床板が落ちる前触れのように聞こえて、下田は心持ち優しめに足を下ろすよう意識した。
 二階の一年教室前まで戻ってくると、他の班と鉢合わせた。
「あれ、牧田たちもう終わったの?」
「いや、まだこれから一階」
 二年生同士で和気藹々と何事かを話し、少々盛り上がっていた。
「そういえばお前らあそこ行く?」
「え、あれって回るんだっけ」
「俺たち一応行ったよ」
「じゃあ今から行ってくるわ」
 その会話を聞いていた白井が少し眉を顰めた。
「牧田、本当に行くの?」
「ちょっとだけだって」
 牧田は特に気にする様子もなく一階へ続く階段を降り始める。
「あそこってどこですか? なんかあるんですか?」
 遠野の質問に牧田は、内緒話をするように声を潜めて続けた。
「うちの学校さ、開かずの扉があるんだよ」
「え、なにそれ怖いです」
「大丈夫大丈夫。夜じゃなきゃあんまり話は聞かないから」
「……話ってなんのですか」
「決まってるじゃん……幽霊が出るって噂だよ」
「きゃああ!」
 鈴木たちが悲鳴を上げると牧田が腹を抱えて笑い出す。
「噂だからそんなに怖がらなくてもいいよ! 昼間は意外と明るいんだ」
 一階の保健室を過ぎた廊下の、さらに奥。そこには誰も開けたことのない部屋がある。
 開かずの扉へ続く廊下の窓は、ここだけが何故か青空を象ったステンドグラスのようになっていて、窓を通った光が反射して廊下を真っ青に染めている。
「綺麗……」
「何故かここだけ窓が違うんだよね。何でか知らないけど」
 青が反射して、七人の体も青く染まる。幻想的な光景に目を奪われ、それぞれが窓や反射を眺めながら進んでいく。しかし、しばらく進むと埃っぽい臭いが充満して息を吸うのも躊躇われるほどになった。
 それは一気に不気味な雰囲気を連れてくる。
「ここだよ」
 他の扉よりさらに古い。というか、手入れがされておらずぼろぼろだった。ドアノブの金属部分は錆び切っており、木屑が足元に散らばっている。扉の端には埃が溜まっていて、しばらく開けられた形跡はない。
「……」
 沈黙が降りる中、息を呑む音が聞こえた。
「何だお前、怖いのか」
 月守が扉の方を見つめて、怯えたように瞳を揺らしていた。
「……い、いやぁ、不気味だな、って」
 なんとか言葉を紡いで不器用に笑顔を作ると、月守は扉から少し離れた。
「なー、不気味だよな? 大丈夫ってわかっててもちょっと雰囲気あって怖いんだよ、ここ。まあ、授業でここらへんに来ることはまずないし、気にしなくていいよ」
 すると突然、がたがたと扉が鳴る。
「やっ……なに……」
 鈴木が肩を揺らして驚き、田村も怯えたように固まった。
「あはは、びっくりした?」
 扉の前にいた牧田が、後ろに回していた手を広げて戯けて笑う。どうやら牧田が悪戯でドアノブを回したようだった。
「脅かさないでくださいよ先輩」
「牧田、悪ふざけはよしなさい」
「ごめんごめん、脅かしすぎた!」

 ——その時だった。
 もう一度、今度は先ほどよりも大きな音が廊下に響き渡る。鈴木は今度こそ大きく悲鳴を上げ、田村は耳を塞いで蹲み込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「田村さん!」
 田村が唱えるように何度も同じ言葉を繰り返す。白井が支えるようにしながら牧田を睨んだ。
「牧田! いいかげんに、」
「え……お、俺じゃないんだけど」
「あんた以外いないでしょ。新入生泣かせてどうするの!」
「本当に違うって!」
 弁明するも全く信じてもらえない牧田は狼狽えるが、下田は確かに見ていた。音が鳴った時、牧田の手は扉には触れていなかったのを。
「やだやだ、はやく戻りましょうよ……っ」
 鈴木まで泣き出してしまって本格的に困ったのか、何度も謝りながら扉から離れた。怯える田村を白井が支え、遠野も小走りで牧田についていく。下田もそれに倣ってついていこうとしたところで、月守が動かないことに気付いて振り返った。
「……おい、戻るって言ってるぞ」
 月守は扉をじっと見つめたまま、立ち尽くしていた。後ろ姿で表情は見えない。少し訝しく思って肩を叩くと、はっとしたように振り返る。
「ごめん、行こう」
 月守は眉を下げながら笑って牧田の後ろをついて走る。
 一体どんな表情であの扉を見つめていたのだろう。ほんの少しだけ、そんなことが気になった。

 オリエンテーション二日目、田村が学校を休んだ。あの後少しだけ例の扉の件が話題になって、扉付近にはあまり近付かないようにと注意喚起がなされた。
 もちろん幽霊が出るからといった理由ではない。整備が行き届いていない場所、しかも人気がなく何かあっても気付かれにくい死角であることから、用のない限りできるだけ行かないように、とのことだった。
 今日の天気は生憎の雨。じめっとした空気が纏わり付くようで、教室も薄暗い。
 そんな中で説明されたオリエンテーションの内容は、学校の周りを回って写真を撮りつつ、マップを作るというものだった。昨日と同じ班分けで各班がマップを作ることになっているので、下田たちの班は四人で進めなければいけない。今日に限ってこの天候な上、田村のこともあり鈴木はどこか暗い表情を浮かべていた。
「……ねえ、田村さん、大丈夫かな。呪われちゃったりとか、してないよね」
「まさか、考えすぎだよ」
 遠野が諭すが、鈴木の表情は曇ったままだった。
 太陽の光が当たらなければどこもかしこも薄暗い校内。不気味さが増した廊下を歩いて昇降口へ向かう途中、下田は何気なく、あの扉がある方へ目をやった。
 ステンドグラスの青空が遠目でも目立つ。呪いなど信じてはいないが、曲がらなければ見えないあの扉のことを想像すると少しだけ背筋に冷たいものが走るような感覚がする。
 雨の日でも美しく輝くステンドグラスの青空は、あの扉へと誘うようにも映った。

 色とりどりの傘が各方面へ散らばっていく。さほど広い範囲ではないので、他の班の姿があちこちに見える。
 下田たちの班は近くの公園へ入った。雨のお陰で水を弾く植物が一層美しく見える。
 学校から貸し出されたデジタルカメラで、月守は植物や公園全体、周りの道などを撮影していた。
「見て鈴木さん、雨も綺麗に映るよ」
「……わ、本当だ。月守くん写真撮るの上手いね」
「鈴木さんもやってみて!」
 カメラを渡された鈴木は月守に言われるがまま構えた。一枚、二枚と撮っていく。
「すごい! この写真使おうよ」
 月守は鈴木の手元を覗き込んで笑う。それに釣られたように鈴木も少しだけ笑って、
「月守くんのも使おう。これと、これ並べたら周りの様子もわかりやすいかも」
「いいねえ」
 それから遠野にもカメラが手渡され、順番に色んな場所を撮った。
「下田くんも、ほら」
「……俺はいい」
「いいからほら、一枚だけ」
 月守に半ば無理やり持たされたカメラを、仕方なく構える。あれだけ三人で撮っていたのだからもうあらかた写しただろうに、と思いつつも、被写体を探す。
 目に止まった名前も知らない花を一枚だけ撮ってから、月守にカメラを返した。
「……かわいいね」
 写真を見て、下田の方を見ながら言う。
「どういう意味だ」
「んー? そのままだよ。これも使おう!」
 揶揄うような、楽しそうなその笑顔を下田は見逃さなかった。どうも自分は月守に遊ばれているような気がする。微妙に納得のいかないままに、先を行く月守たちに大人しくついていった。

 しばらくするとそれぞれの班も写真を撮り終えて手持ち無沙汰になったのか、班の境が曖昧になってきた。少し遠くまで行っていた班も公園まで戻ってくる。
「せっかくだしみんなで写真撮ろうよ!」
「賛成! 変顔とかしよー」
「どうせ撮るならあっちの方がよくない?」
 大多数が盛り上がりはじめる中、輪の中に入る気もない下田は、雨のあまり当たらない緑廊の方へ移動した。
 こういう空気は何だか苦手だ。ピースをしたり変顔をしたり、変なポーズで写真を撮り始める集団を見ながら眉根を寄せる。
 何人かがこちらに視線をやる。緑廊にいるのは下田だけだ。他は皆公園の真ん中に集まっている。どうせ空気が読めないとか、付き合い辛いやつだとか思っているのだろうと、特に何を言われているわけでもないのに自然に浮かんでくる台詞に一層眉間のしわを濃くした。
 実際のところ、客観視してみると全くその通りだ。集団に混ざらず不貞腐れたような顔で遠くにいる人間に関わろうだなんて、誰も思わないだろう。
 盟静高校は、中退する生徒も少なくないらしい。勉強についていけない者や、クラスに馴染めない者から、段々と学校に来なくなり、やがて。
 自ら選んだ道ではあるが、このまま一人を選んだ時、自分もその道を行く可能性があることに少し気が滅入る。何より親に顔向けできない。できれば中退だけはしたくないものだ。 一人でいるのは楽だが、なかなか難しい。悩むくらいなら輪の中に入ればいいと誰かが囁く。しかしあの中に入りたいかと言えば、それもまた違って。
 今日来なかった田村もそうだ。田村も集団を好むタイプには見えなかった。鈴木は心配していたが、同じ班で原因となり得る瞬間に立ち会ったからだろう。他に田村を心配している人間は一人もいなかった。休んだ理由は知らないが、明日も来なかったら、多分明後日も来ることはないだろう。なんとなくそんな気がした。
 依然、雨は降り止まず、それどころか勢いを増してきている気さえする。
 つまらない考えばかりが脳を埋め尽くしていく。このまま帰ってしまっても雨に紛れて気付かれないのではないだろうかと思案していた。
「下田くん」
 突然、目の前に黒い傘が現れる。傘に当たって弾ける雨音が聞こえなくなると、その傘はそっと横にずらされて、月守が顔を覗かせた。
「また一人だね」
「……お前はあっちにいろよ」
「おれ、写真撮られるの苦手なんだよね。だから一枚だけで勘弁してもらった」
「……そうかよ」
 広場の中央では飽きずにまだ写真を撮り続けている。グループに別れたり、男女でそれぞれ集まっていたり。緑廊の下は、まるで世界から切り取られたかのように静かだった。
 月守だけが、下田の世界へ足を踏み入れている。
「心配? 田村さんのこと」
「……別に」
「下田くんのこと段々わかってきたよ。わかりやすいから」
 見透かしたような、いたずらっぽい笑み。
「明日田村さんが来たら、話を聞いてみるよ」
「話って、何の」
「体調はどう? とか、そういう普通のことを」
「まず、明日も来るかどうかわからないだろ」
「そうかな。おれは来ると思うな」
 傘をくるりと回しながら、下田より少し低い位置から見上げてくる。
「田村さんも真面目でいい子だからね」
 微かに眉を下げてそう言った。
「だから、明日は話をするよ」
 大きな黒い傘が、再び月守の顔を隠す。
 雨は未だ降り止まない。それでも少しずつ、弱まってきていた。

 月守の言う通り、後日田村は学校に来ていた。少し顔色は悪いが病み上がりだからだろう、という程度で、月守のすぐ後ろの席で静かに説明を聞いていた。
 今日は部活動の紹介がある。体験入部などは来週からだが、上級生がクラスまで来てアピールをするのだそうだ。
 下田は部活動に参加する気はなかった。学校では必要最低限のことを学べさえすればそれで良く、帰りが遅くなる活動はなるべく控えたい。人との関わりが増えるのも面倒だった。
「では続いて、漫画研究会の先輩方です」
 テニス、バスケ、サッカー、吹奏楽、料理、美術。運動部も文化部も様々な紹介があって、中には教室でいきなりボールを投げ始めたり、大きな楽器を持ち込んで演奏する者もいた。そんな中で教室に現れたのは、見知った二人組。
「どうも、漫研の牧田っていいます」
「白井です」
 校舎案内を担当していた牧田と白井だった。牧田は田村や鈴木の姿を確認すると少し申し訳なさそうな顔をして、それから話を始める。
「漫研は漫画描くだけじゃなくて、イラストとか、あとコスプレとか、割となんでもやります。アニメとか漫画とかサブカル系に興味ある子はぜひ! みんな気のいいやつなので楽しいと思います!」
「男女比は同じくらいなので、そこは気にせず入ってもらって平気です。コミ……イベントで作品を出してみたり、他にも部員の子がやりたいって思うことはなんでも、できる限りはしたいと思っているので、ぜひ」
「ちなみにこれ、俺が描きました!」
 牧田はピンク色のツインテールの女の子が印刷されたコピー用紙を黒板に貼り付ける。素人目にも絵の上手さが伝わるものだった。ただ、下半身の露出が激しいため少し目のやり場には困る。
「これ貼っといていいすか?」
「あー……うん、とりあえずは」
 担任は苦笑いを浮かべつつ二人を出口へ促した。去り際に軽くお辞儀をして、二人は廊下へと出て行く。
 担任が次の生徒を呼ぼうとした時、がたん、と誰かの机が動く音がした。
 音の鳴った方へ視線が集まる。田村だった。
「田村、どうした」
 田村は口元を抑えて苦しそうにしている。机は少し蹴飛ばされて前の月守の椅子に当たっていた。驚いた担任は田村の方へ駆け寄ろうとするが、田村はより一層体を丸め、背中を波打たせた。
 咄嗟に月守が、クラス中の視線から田村を庇うようにその体を支える。苦しそうな呻き声が聞こえた。
「田村さん、水道まで歩ける?」
 月守が一瞬下田の方を見た。すぐに廊下へ出て行く月守に下田ははっとして、
「保健室、連れて行きます」
「あ……ああ、よろしく頼む」
 呆然とする担任に一声かけて月守の後を追った。

 すぐ近くの水道で、蹲る田村の背中を摩る月守を見つけた。その学ランは少し汚れている。
「大丈夫、なのか」
「大丈夫、大丈夫」
 月守は優しい声色を意識したように、いつにも増して柔らかな声で田村に話しかける。
「楽になるまで出しちゃっていいよ。誰も見てないから大丈夫」
 背中を摩りつつも、その視線は田村からは外れている。下田も咄嗟に違う方を向いた。
「ごめんね、男だけで。女の子に任せた方が良かったな」
「だ……だいじょうぶ、です。ありがと……」
「そう? もう平気かな」
「一旦、落ち着きました」
 田村はハンカチで口元を抑えながら体を起こした。
「ご……ごめんなさい、汚しちゃって」
「いいの、気にしないで。それより保健室行こう? ゆっくり休んだ方がいいよ」
「あ、あそこは! いや、です」
 田村は口元を抑えつつも大声で叫んだ。怯えたような表情で。
「大丈夫。曲がらなければ見つからないよ」
「え……?」
「おれが先に行って見えないようにするから。ね? 行こう」
 触れるか触れないかの距離で、倒れても大丈夫なように手を添えながら、田村を促す。
「それに、保健室は安全なんだよ。バリアが張られてるからね」
 戯けたようにそう言う月守に、少しだけ田村の表情が緩んだ。

 保健室はあの開かずの扉へ向かう廊下の手前にある。保健室を過ぎて少し行くだけで、ステンドグラスの青空が広がっている。そこを曲がればあの扉が待っている。田村が怯えるのも無理はなかった。
「先生、具合が悪いみたいなので診てあげてください」
「うわ、なんだ月守か。どれどれ、とりあえず……」
 保健室に入るといきなり月守の名前を呼ぶ軽薄そうな男が出てきた。白衣は皺だらけで髪はグレーに近い黒。染めてもバレないぎりぎりの色を選んでいるようで、耳に注目すればピアス穴のような跡まで見えた。
「月守はこのタオル使って。君は、うがいはしたかな?」
「ゆすいだだけで、そんなには……」
「じゃあちょっとそこの水道でしておいで。すっきりしたら戻ってきて」
 その見た目に反しててきぱきと指示をする男は下田を見て首を傾げる。
「お前は?」
「保健委員、です」
「なるほど、じゃあ家庭科室行ってこのやかんでお湯沸かしてきて」
「え、お湯、っすか」
「そうお湯」
「なんかないんすか、他の、電気ケトルとか、ウォーターサーバーとか」
「ないないそんな洒落たもの! いいから早く」
 ほい、と渡されたアルミのやかんを手に、下田は指示されるままに家庭科室へ向かった。
 家庭科室は保健室の真上にある。昇降口横の階段とは逆の、保健室側の階段を駆け上がって家庭科室の前まで行くと、当然ながら鍵がかかり真っ暗だった。
「おい、鍵は……」
 思わず独り言を洩らしつつ、あの男が持っているとも思えず職員室に向かった。
「あ、あの、すみません、家庭科室の鍵貸してもらえませんか」
 下田の声に数人の教師が振り返る。やかんを持って息を切らした間抜けな新入生が、そこにはいた。
「なんだ君、どういう状況なんだそれは」
「あ、あの、保健室の、先生に言われて」
「……また海沼先生ですか」
 合点がいったと呆れながら鍵を渡される。
「あの……いつもこうなんすか」
「いつもこうよ。お疲れ様」
 憐れみを多分に含んだ笑顔で見送られつつ、また家庭科室へと走る。
 コンロの使い方は正直自信がないが、迷っている暇もない。中学時代に習ったことをできる限り思い出しながら火をつけて、水道水を入れたやかんを置いた。
 どれくらい沸かせばいいのか聞いてくるのを忘れたな、と思いつつ、半分くらいを沸かしてから火を消した。コンロのチェックを済ませ、鍵はポケットへ一旦しまって保健室へと急ぐと、田村がブランケットに包まれながらソファに座っていた。
「ご苦労新入生」
 やかんをひったくられるとそのまま紙コップにお湯が注がれる。湯気が立ち上り、かなり熱そうだ。
「ちょっと冷ましてから、ゆっくりね」
「……はい」
 少し待って、田村はゆっくりとその紙コップに口をつけた。
「ぬるま湯の方がいいんだよ、こういう時は」
 恐らく下田に向けて言われた言葉に内心どきっとする。お湯と言われたから沸騰させたのだが、間違っていたのだろうか。
「なんか、すんません」
「あ? いやいや、いいんだよ。水道水は沸騰させてから冷ました方がいいんだ。だから正解」
 予想に反した答えに呆気にとられているうちにも男は話を続けた。
「新入生は知らないだろうけど、ここで養護教諭してる海沼透です。できれば世話にはなってほしくないけど、よろしくどーぞ。お前も座ってちょっとゆっくりしていきな」
 言葉のぶっきらぼうさに反して優しく微笑みながら、田村の正面にあるソファを勧められる。
「俺は別に、体調悪くないんで」
「まあいいじゃねえの。退屈でしょ、教室は」
「はあ……それ先生が言っていいんすか」
「いーのよ」
 下田は紙コップに入った水を一口飲んだ。こちらはとても冷えている。恐らく部屋の隅にある冷蔵庫から取り出されたものなのだろう。
「お前は?」
「え?」
 一拍置いて、名前を聞かれたことを理解して下田東弥です、と名乗る。ふうん、と目を細めて、
「お前が月守の友達ねえ」
「え、は? いや、」
「そうです。噂の下田くんです」
 月守がベッドから顔を覗かせた。
「こっちで洗濯してくか?」
「家でできるので大丈夫そうです。あと、先生に任せるのはちょっと……」
「あーいかん。これは傷ついたー」
「ええ、すみません! でも先生もなかなか不器用じゃないですか」
「先生これでも一人暮らしなんですけど。洗濯くらいできるけどな」
「ううーん」
 月守が楽しそうにしている。初めて見た、と思った。
 いや、本当は初めてではないはずだ。入学してからいつだって月守は笑顔だった。
 けれど、なんだかいつもと違う様子に下田は戸惑った。初めて見る月守だ、と。
 心を完璧に許しているような、そんな笑顔。
「田村さん、体調が落ち着いたらちょっとだけ話をさせてくれないかな」
 月守は学ランをビニールに詰めて、ワイシャツ姿でベッドの方から出てくる。
「話、って」
「君が楽になるように、お手伝いをしたい」
 田村はブランケットをぎゅっと握りしめた。

「話っていうのは、例の扉のことなんだけど。田村さんが昨日お休みしてたのは、もしかしたらあの扉に関係しているのかなって思ったんだけど、どうかな」
 月守は下田の横に座り、田村と海沼に向かい合うようにして話を始めた。
「……関係、ないわけじゃ、ないです」
「君はあの日、何かを見たのかな」
 田村はしばらく黙ってから、口を開く。
「見た、わけじゃない。でも、確かにいたんです。あの人は出たがってた。誰かを恨んでる。……誰かへの、憎悪でいっぱいだった」
 扉の向こうに感じた気配。それは下田にはわからなかったが、田村の怯え様で容易に想像することができた。
「あそこにいる人は、君や、あの日あそこにいたおれたちを恨んでいるわけではないよ。況してや君が過去に何かがあったとして、それと関係しているということもない」
 田村は目を見開いた。下田も少し驚いて、横の月守を見る。あそこに”何か”がいることがさも当然であるように言って退けた。あの時立ち止まった月守は、扉の奥に何かを見ていたのだろうか。
「なんで、月守くん」
「君が何かを背負う必要はないよ。誰も、恨んでなんかいないんだから」
「そんなの、わからない。わからないんだよ」
「どうして?」
「だって、人の気持ちなんてわからないでしょ。どこで誰が恨んでるだなんて、わかるはずない」
「直接聞いてみたらいいんじゃないかな」
「聞けないよ! ……聞けるわけない」
 田村が声を荒げた。目に見えてわかる動揺にも、月守と海沼は動じなかった。
「ねえ、よかったら話してみてくれないかな。君一人で抱え込んでも、ずっとそのまま苦しいと思うんだ」
「月守くんは、何を知ってるの」
「何も知らないよ。ただ、何かがあったことだけは感じたから」
 月守が優しく微笑むと、田村はぽつぽつと、話を始めた。

 田村が通っていた小学校では、いじめがあった。
 田村は直接被害に遭ったわけではないが、同級生の女の子が複数の男の子に目をつけられていたのだそうだ。
 その女の子は、ある日は上履きを隠され、またある日は机に落書きをされていた。そしてまたある日、トイレに閉じ込められてしまう。泣いても喚いても助けられることなく、大人がそれに気付くまで出ることはできなかった。
 そしてそれをきっかけに彼女は学校に来なくなる。一日、二日と日数を重ねて、その出来事が忘れられた頃、転校したという話が教師の口から告げられた。
 田村はずっと、それを見ていた。男子たちを止める勇気も出ず、見ているだけだった。たすけてと声が聞こえても、その声が酷く恐ろしく聞こえて、手を差し伸べることができなかったのだ。
 自分一人では何かできるわけではないと諦めていたから。
 次は自分が標的になるかもしれないと思ったから。
 あの男子たちに逆らったら、邪魔をしたら、何をされるかわからなかったから。
 彼女は自分と特別仲がいいわけでもなかったし、自分が助けたところで彼女が救われるとは思わなかった。
 彼女を助けたところで、自分に何かいいことが起こるだろうか。
 招くのは悪いことばかりだと考えてしまって、足が動かなかった。
 今でもあの子の泣き叫ぶ声が耳にこびりついている。
 もしあの子を助けることができたなら、いい友達になれたのかな。
「人を助けるって、すごく難しいことなんだ。田村さんだけがそれを背負う必要はないんだよ」
「だけど、最低でしょ。自分のことしか考えてない。結局わたし、あの男子たちと同じなんだ」
「同じなわけないよ。君はあの子をいじめてないでしょ」
「あの子にとっては、同じだよ」
 田村は涙をこらえながら言った。震える手を庇うように、もう片方の手が重なる。
「気になるなら、伝えてみればいいんじゃないかな。その子に」
「連絡先なんて知らないし、今更合わせる顔もない……」
「連絡先なら先生の知り合いに任せればまず大丈夫だ。幼馴染に探偵がいる」
 海沼が田村に目線を合わせながら言うが、まだ躊躇った様にブランケットを握った。
「怖い?」
 真実を知って、恨まれていたらどうしようと思う。
 自分はあの子を見捨てたのだ。いじめていた人間とそれを傍観していた人間は同罪だという。教師にクラス全員が叱られた時のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられるようだった。
 何もしていないと文句を言う生徒もいたが、自分にはそれができなかった。何もしなかったことこそが罪なのだと、思っていたから。

「君みたいな優しい人のことを、その子は責めないと思うな」
「……ずるいだけだよ」
 月守はゆっくりと頭を横に振る。
「僕を信じて。絶対に大丈夫だから」
 まっすぐに田村の目を見て、月守はふわりと笑った。
 田村は躊躇いながらも、ゆっくりと頷く。
「……知りたい。あの子の、本当の気持ちを」

 翌日。その場に居合わせたという理由で下田を含めた月守、海沼、田村の四人で例の彼女に会いに行くことになった。オリエンテーション期間は早めに下校できるため、まだ明るいうちに海沼の車で移動することができた。
 彼女は今は高校で元気にやっているらしい。
 海沼の幼馴染とやらは随分優秀な探偵のようで、あっという間に連絡先を見つけ、会う約束を取り付けてくれた。
 いきなりほぼ知らない人間たちが押しかけるのはいかがなものかという話は出たが、海沼の幼馴染側で話をつけてくれたらしく、田村がどうしても謝りたいことがあるという旨を伝えれば快く承諾してくれた。彼女は、田村のことを覚えていたのだ。
 待ち合わせ場所へ到着すると、母親と一緒に彼女が来ていた。こちらも一応保護者の立ち位置で海沼がついている。向こうの母親は海沼が教師だとわかると安心したようで、とりあえず子供達に任せようということで話が落ち着いた。
 下田と月守は海沼の車で待機することになった。少し遠くのベンチで二人、話している様子をなんとなく眺めながらぼうっとする。
「うまくいくといいね」
「……ああ」
 助手席にいる月守と後部座席にいる下田の間に特に会話はないまま、一時間ほどすぎたところで、彼女らに動きがあった。なんだか二人とも幸せそうな表情をしていたように思う。
 ここからは田村に聞いた話だ。二人きりになった彼女たちはまず、再会を喜んだ。元気そうな姿に田村も、彼女も喜んでいたという。近況を聞くと、今は友達こそ少ないが、信頼できる友達は一人だけいると。その子もまた小学校の頃はいじめに遭っていたが、だからこそお互いに優しくなれる、良い関係。
 田村は安堵した。その隣にいるのは自分ではなかったが、代わりに大切な人を見つけられたのだ。彼女はもう一人ではない。
 当時助けられなくて申し訳なかったと、田村が正直な気持ちを全て彼女に話すと、彼女は涙を溢した。そう思ってくれている人がいて嬉しいと。
『田村さんみたいな人がいるって気付けていたら、あの小学校でもなんとかやっていけていたかもしれないね』
 優しく笑う彼女に、田村もまた、同じように涙を流した。

「わたし、もしもまた助けを待っている人に出会ったら、ちゃんと助けてあげられるようになりたいって思った」
 帰りの車内で話を終えた田村は心なしかすっきりしたような表情でそう付け足した。
 助手席の月守は後ろの田村と下田を振り返りながら笑う。
「よかった。田村さんもうすっかり顔色もいいみたいだし。あの子と連絡先交換したの?」
「うん。だけど、たまにメールするくらいになるかも。わたしも、今はこの高校で頑張っていきたいんだ」
「きっとすぐたくさん友達ができるよ。おれたちももう友達だし!」
「ありがとうね、色々と」
 田村はきっともう大丈夫だろう。田村もまた、いつか気の合う友人を見つけて、楽しくやっていくのだ。下田はどこか遠くを見つめて、思う。
「月守くんみたいに、なれたらいいな」
 田村が横で小さくそう呟くのを、下田だけが聞いていた。
「そういえば田村、家はどこだ? もう遅いしみんな送ってくよ」
 あたりはすっかり暗くなっていた。田村が住所を伝えるとまずそこへ向かう。女の子を夜遅くまで出歩かせるのはいけないだろう、と優先することになった。海沼はいい加減そうに見えて、意外と常識があるのかもしれないと下田は密かに感心していた。
 田村を送り届けた後。月守があ、と声を上げた。
「学校に忘れ物した! 先生、学校寄ってもらっていいですか? 下田くん送り届けてからでいいので……」
「お、りょーかい。下田の家は?」
「あ。いいっすよ別に、学校寄ってからでも」
「ごめんねえ」
 夜の学校は昼間とは比べ物にならないほど不気味だ。まもなく車が学校へ到着すると、その異様な雰囲気に尻込みしてしまう。
「下田くん、怖かったら一人で車で待っててもいいよ」
「その方がこえーだろうが」
「怖いのは怖いんだ」
 海沼が携帯を構える。すると赤、青、黄色、と順番にカラフルなライトが点滅する。大して明るくはない。
「そのライト普通にできないんすか」
「なんだよ、こっちの方が楽しいだろうが」
「暗いんですよ」
 下田がスライド式携帯を構えると、多少は明るさが増した。
「電気どこだっけなあ。廊下のはあんまり詳しくないんだよ」
 もう学校には誰もいない。海沼がいるお陰で入ることができたが、本来はここに居ていい時間ではない。当然、学校中の電気も消されていた。
 手当たり次第に電気っぽいものをぱちぱちと点けていくと、段々と廊下が明るくなっていく。
「これだけ明るきゃもう大丈夫だろ。んで月守、どこで忘れ物したんだ」
「保健室にかばんごと忘れました」
「そりゃまた盛大に忘れたな!」
 何が楽しいのか二人は笑いながら保健室へ向かう。下田は呆れ顔でその後ろをついていった。
 保健室まで行けば、外が暗いことを除けば割と安心できる。ソファのど真ん中に置かれた月守の鞄を無事回収してさあ帰ろうというその時。
 どんどん、と廊下に何かの音が響いた。保健室を超えてさらに奥から聞こえるような気もする。
 音は何度か繰り返されて、しばらくすると止んだ。その間誰も、一言も言葉を発することはなかった。
『大丈夫大丈夫。夜じゃなきゃあんまり話は聞かないから』
 いつかの牧田の言葉を思い出した。
 今もあの扉の向こうには、何かがいるのだ。
 開かずの扉のその先は、未だ誰も知らない。
「あそこは開けちゃいけない。絶対にね」
 月守が真剣な顔で言う。

 こうして誰もいない時間に、夜毎響いているのだろうか。
 今も誰かの助けを待って。