大切なお友だちへ。
絶対に”最後”まで読んでね!
あなたは一番の友だちに選ばれました!
このメールを受け取ったら、あなたも一番の友だちを一人だけ選んで、文章を変えずに二十四時間以内に転送してください。
たくさんの人に回すのは禁止です。
誰にも送らないのも禁止です。
約束を破ると、あなたは呪われます。
友だちや、家族、大事な人にまで影響が及びます。
必ず、一番の友だち”一人”だけに送ってください。
***
通常授業が始まってしばらく。一年の教室が並ぶ廊下には、入学後に行った基礎学力テストの結果が貼り出されていた。
教科ごとに上位数名の名前が表記されており、その全てに見覚えのある名前が並んでいる。
『月守羽留』
月守はあっという間に一年生の間で注目されるようになっていた。学級委員長の名に恥じない成績、一部で天使などと称される容姿。誰にでも優しく物腰柔らかな口調。好かれる要素が揃っている。その上気配りもできて、少しでも困った様子を見せると月守は誰であろうと手を差し伸べるようなできた人間であった。
それでも月守がとりわけ気に入っているのは下田のようで、決まって朝一番に挨拶を交わして満足そうな笑みを下田に向ける。その微笑みが欲しい人間はいくらでもいるだろうに。
短所があるとすれば、少し不器用で抜けているところだろうか。教師によく仕事を任されているらしいが、無茶をして大量のノートやプリントを床にぶち撒けるなんてざらにある。
そういう部分も『逆に良い』などと言われてしまえばそれまでなのだが。
「おはよ、下田。遅刻しないで来られたんだね」
「バカにしてんのか」
「え、違うよ!」
例に漏れず今日もわざわざ机までやってきた月守の挨拶を軽く躱す。
日に日に勝手に距離が縮んでいく。そのうち変なあだ名なんかも付けられ兼ねない。
「じゃあ、今日も一日頑張ろうね」
月守が満足げに笑って自分の席に戻った直後、肩に衝撃が来る。
反射的に後ろを振り返ると、茶髪の男がにやりと笑った。
「むかつくよな、ああいうやつ」
「……お前誰」
「あ? 佐久間だよ。佐久間直斗。席そこじゃん、覚えてないの? 下田クン」
そこ、と指差す先は下田の席の右斜め前。未だに月守からもらったノートを見返すこともなく、特にクラスメイトに興味も持たなかったので、名前など全く覚えていない。
「初日から目ェつけられちゃって、毎日絡まれてかわいそーだなって思ってさ。お前もあいつのこと嫌いだろ?」
「別に好きでも嫌いでもないが」
「でもさあ鬱陶しいだろ、誰にでもいい顔しちゃって。俺ああいうの大嫌いなんだよ」
あからさまに月守の悪口を並べて、嘲笑する。月守とは正反対の笑みだ。
敵は作り兼ねないとは思っていた。なんでもできる人というのは得てして恨みを買いがちだ。
「愚痴を吐きたいなら他所でやってくれないか」
「冷たいねえ。でもそういう方が好感持てるよ。ここにはバカみたいな女と盛ってる男しかいないし。全員で群れて仲良しごっことか、そういうの下田は嫌いだと思ったんだ」
「だから、群れないやつらで群れようって?」
「は、痛い所衝くね。でも二人じゃ群れって言わねぇだろ」
集団が苦手なのは否定しない。下田はオリエンテーションで写真を撮りに行った時のことを思い出していた。半年も集団から離れていたせいかわからないが、このクラスは特に仲が良いように見える。つまり、群れている。
多数派が群れているようにまた、少数派も同じようにいて、群れている。どこへ行っても誰かと誰かが一緒にいる。一人でいるのはいつも自分くらいだ。少なからずその自覚があった。
「いくら仲良しごっこが嫌いだからって、さすがに一人は不利なんだよ。だからさ、とりあえず連絡先交換しねえ?」
「なんでそうなる」
「お前なら信用できると思ったんだよ! あんな集団に流されないでいるお前なら」
肩を強めに叩かれる。馴れ馴れしい。また面倒なやつに目をつけられてしまったと思った。これは自分の行動を改めるべきかもしれない、と一人で脳内反省会を始めようとしていると、佐久間は勝手に下田の鞄を漁り出した。
「おい!」
「あ、あったあった。大丈夫だよ別に迷惑かけねえって」
「その行動が既に迷惑なんだが……」
佐久間は勝手に下田の携帯を取り出すと慣れたようにポチポチと操作して、何事もなかったかのように携帯を渡した。
「ほい。俺の連絡先も入れといたから。二人組必須の課題とかあったら協力しようぜってそれだけ」
ああそれから、と席に戻る前にもう一度振り返って佐久間が言う。
「俺がサボった時はノートとか見せてな」
いいように使われそうな気がした。
授業が一段落し昼休みに入る頃、月守は再び下田の机まで駆け寄ってきた。
「朝、何話してたの? 佐久間くんと」
「別に、大したことは話してない」
「そう……仲良くなった?」
「……」
月守は何がそんなに楽しいのか、わくわくしながら聞いてくる。
何とも言えず沈黙を貫くと、大方察したのか切り替えるようににこりと笑って、下田の顔を覗き込んできた。
「ねえ、お昼休み、ちょっとだけ時間あるかな」
他の生徒たちは購買やらコンビニやらへ向かったのか、教室は閑散としていた。佐久間の姿ももう見えない。
今日の昼は朝買った菓子パン一つだ。食べるのに大して時間もかからないだろう。
断る理由がなかったのと、佐久間の先程の言い様に若干の同情もあって、大人しくついていくことにした。
「人助けしないか?」
連れて行かれたのは案の定保健室であり、海沼から開口一番発されたのはそんな言葉だった。
「なんすか急に」
「ボランティア活動。掲示板にも貼ってあったろ。参加したら内申点上がるし、大学受験にも有利だ。何より、人の役に立てる」
大袈裟に両手を広げてそんな話を続ける海沼は、どこかわざとらしい。
「遠慮します」
海沼は下田の即答にもうんうんと頷く。
「断られるとは思ってたよ。面倒くせえもんなあ」
「さっきから先生らしからぬ発言は大丈夫なんすか」
ソファにふんぞり返りながら、海沼は続ける。
「経験ってのはな、絶対無駄にはならないんだよ。学生のうちに色々やっといた方がいいぞー? やらないよりやった方がいいのは確実だ。やらなかった俺が言うんだから間違いねえよ」
「説得力があるんだかないんだかわからないっすね」
「知らなかったことも知れて、結構楽しいよ?」
月守も海沼の横でにっこりと笑って言う。月守は既にボランティア活動まで行っているらしい。教師の手伝いまで積極的にしているのだから、やっていてもおかしくはない。しかし、どこにそんな時間があるのだろう。
「時間も頻度も自由に決めていい。土日でも平日放課後、少し顔を出すだけでもな。場所は学校から少し距離があるが、俺が車を出してやる。まずは月守のを見てるだけでもいいぞ」
「見てるだけって……一体何するんですか」
「話し相手になる。それだけだ」
海沼は机の下に忍ばせていた冊子を取り出して下田の前へ置いた。
「高齢者福祉施設と児童養護施設が一体になっていてな。人手不足とかで、学生の傾聴ボランティアを募集し始めたんだよ。まあ、言っても大人のスタッフはもちろんいるし、緊急時は助けてくれる大人が周りにたくさんいるから、そこまで気負わなくていい。俺も大体はついてるしな。あとはお前が人の心に寄り添えるかどうか、だ」
下田は冊子を見下ろして口を噤む。人と関わることを意図的に避けてきた自分にそれができるとは思えない。
それに何より、話し相手になるというその内容自体が、拒否する理由に事足りるのだから。
「ゴミ拾いくらいならやってもいいですけど、これは無理です」
「……そうか。まあ無理強いはしないよ。また気が向いたらいつでも教えてくれ」
海沼は意外にもすぐに引き下がる。ボランティア活動はやるもやらないも自由だ。きっと少し勧めただけなのだろう。人手不足ということだったので、本当に困っているのかもしれない。だとすれば、何も下田にだけ声をかけているというわけでもないだろうし。
多少の罪悪感を覚えながらも、なんとか自分自身への言い訳を重ねて納得させる。それに未だに引っかかるのだ。海沼はともかく、月守はやたらと下田に構いたがる。ボランティアのことだって、月守が海沼に頼んで下田を誘うよう仕向けたと考えられなくもない。
理由のない好意は不気味でしかなかった。悪い人間とも思えないが、本心が見えない。
なぜそこまで”良い人”でいられるのか、下田には理解し難かった。
帰宅するとすぐにソファへ飛び込んだ。やっと一人になれたような気がする。
月守や海沼だけじゃない。今日は佐久間のこともあってなんだかどっと疲れた。やはり落ち着く場所は家だけだと、天井を見上げて寛いでいたところに、携帯が鳴る。
幸いすぐに音は途切れた。メールだろう。
「……はあ」
下田は大きな溜め息を吐いた。下田に連絡を寄越すのは基本家族だけだ。両親と兄が一人。今住んでいるこの家も元は兄と二人暮らしだったが、滅多に帰ってこないため実質一人暮らしのような生活をしている。できれば今日は文面上ですらもう誰とも会話したくないところだが、と携帯を確認すると、差出人に見覚えのないアドレスが表記されていた。
ただ、心当たりならある。佐久間だ。アドレスの文字列からしてもおそらくそうだろう。
「はあー……」
下田はもう一度深い溜め息を吐いた。渋々本文を確認するが、そこに書かれていたのはおよそ佐久間が書いたとは思えない文章だった。
『大切なお友だちへ。絶対に”最後”まで読んでね! あなたは一番の友だちに選ばれました!』
そんな文言から始まる、所謂チェーンメールだった。中学でも一時期流行っていたような気がするが、何日以内に何人に送らなければ呪われるなどというものが多かったはずだ。
その形式に則った内容が書かれてはいるが、『このメールを受け取ったら、あなたも一番の友だちを一人だけ選んで、文章を変えずに二十四時間以内に転送してください』と、人数は一人に絞られている。できるだけ拡散しようとする内容が多いイメージだったので、少し珍しいと思った。案の定最後には呪われますといった文が残されており、自分だけでなく友だちや家族などにまで影響があるなどと脅し文句まで添えられている。メール内容は佐久間が受け取ったであろうものをそのまま転送してあるだけで、佐久間からの追記などは何もない。アドレス交換直後に送るのがこれか、と呆れてもう一度溜め息を吐くが、ふと、最初に強調してある文字が気になった。
最後。
文章が終わった場所から、どこまでも下へ下へ空白が続いている。転送ミスかとも思ったが、なんとなく引っかかってスクロールを続けた。
カチカチカチ、とボタンを押す手が速くなる。
——そうしてしばらく下へ移動すると、突如URLが現れたのだ。
明らかに怪しい。こういうのは無視に限るのだが、あまりにも焦らされたせいで、好奇心が止められずにいた。
暫し悩んで、無駄に空白部分を行ったり来たりと繰り返す。
一度は画面を閉じてみたりもした。だが、気になる。
「……」
詐欺なら詐欺で、それまでだ。まあ、なんとかなるだろう。
まさかクラスメイトから送られてきたメールにくっついているのが、そこまで悪質なものとも思えなかった。思いたくなかった、という方が正しいかもしれない。
意を決して、下田はURLを選択した。
「うわ、」
突然画面が真っ黒になった。そして、大きく文字が登場する。
『盟静高校裏掲示板』
”裏”部分だけを赤文字にしていて、あとは黒背景に白文字で文章が続いている。いかにも、といった感じだ。掲示板には既に数え切れないほど多くの投稿がされている。ぱっと見ただけでもあまり気持ちの良いものではない内容が書き連ねられていて、見ているだけで気が滅入る。
佐久間も相当ストレスが溜まっているのかもしれない。知らないだけで、クラスの生徒たちも、ここに気に入らない生徒や教師の悪口を書いているのだろうか。
改めて人間関係の面倒臭さにうんざりしていると、最新の投稿を見つけた。
つい先程書かれたものだった。
「……は」
そこに書かれていた単語にまず目を留め、何度か文章を読み直す。文字だけを追っていても音しか入ってこない。ただひたすらに、その二文字が脳内をぐるぐると回って。
『一年の中に■■を自殺まで追いやった奴がいる』
伏せられた字が何かわからなくても、自分の中では容易に想像することができる。
気がつけば、投稿の削除方法を探していた。汗で手が滑る。
管理人に問い合わせれば削除できるという文言を見つけたところで、手が止まった。
これでは、自分だと言っているようなものではないか。
「……く、そ」
震える手で、掲示板を閉じた。やはり見るんじゃなかった。
詐欺なんかよりよほど悪質だ。
そして、脳内を埋め尽くすのは一つ。あの学校の中に、過去の自分を知っているやつがいるかもしれないということ。
こんなにもタイミング良く送ってきたあたりを考えるとまずは佐久間を怪しむべきだろう。しかし、そういえば月守は下田が名乗る前に下田の名前を呼んでいた。先生に聞いたと言っていたが、果たして本当だろうか? 海沼は? 教師伝いで何か聞いている可能性もある。考えれば考えるほど、この世の全員が敵に思えてならない。
この掲示板を、クラスの何人が見ているだろう。明日、この投稿を見た生徒たちはどんな気持ちで一日を迎えるのだろうか。何より自分は、どんな顔をして明日登校すればいいのだろう。
環境が変わればうまくやれる気がしていた。誰も、何も知らない場所で、ゼロから人生をやり直すかのように。
次は失敗しないと言いながら、何度でも同じ過ちを繰り返す。
当然だ。だって自分の中身は、何も変わっていないのだから。
***
下田東弥が不登校になる少し前。肌を掠める風が冷たく、吐く息も白く染まる、十一月のことだった。
下田には仲良くしている女子生徒がいた。今よりずっと外交的で友好的な性格だった下田には一定数友人がいたが、その中でも特別一緒に行動することが多いのが、那鴫美羽だった。
那鴫はとても穏やかで、真面目で、大人しい性格だった。基本的に那鴫から誰かに話しかけることこそなかったが、こちらから話しかければ話は弾むし、どんな時も否定せずに受け入れてくれたので、一緒にいて楽しかった。
聞き上手だったのだと思う。那鴫は否定をしないから、自分の意見を押し通さないから、それに甘えすぎていた。
自分が心地よいと思っている時、誰かが我慢をしているのだと、その時は気付けなかったのだ。
そうして入学からおよそ二年が経った頃。那鴫は初めて、自らの意思で、下田に思いを伝えた。下田に恋心を抱いていたのだ。
那鴫には下田以外に親しい友達と呼べる存在がいなかった。下田だけに好かれるために、ずっといい子を演じていた。それ自体は心地よかったはずなのに、告白された時に下田は何故か違和感を抱いた。今までの全てが恋愛感情のもとで出来上がっていたことだと気付いた瞬間、今まで心地よかった何かが崩れ去った気がしたのだ。
那鴫には下田しかいなかった。
下田が告白を断った瞬間に、那鴫の支えとなるものが折れ、ばらばらと音を立てて崩れていく。唯一信頼していた相手に裏切られたような感覚だったのだと思う。心を壊すには十分な出来事だった。
彼女は自殺を選んだ。
誰もが見ている教室の窓の外。下田の目を見ながら、その体を後ろへ倒した。
鉄柵から滑る足。揺れるスカート。吐く息は白く、教室を冷やしていく。
ずっとうまくやれていたと思っていた。意識すらしていなかった。
いつから間違えていたのだろう。
どこで間違えたのだろう。
自分がたった一言、受け入れる言葉をかけていたら、何か変わっていたのだろうか。
後で知った。那鴫は他の生徒からいじめを受けていたこと。
だが、それも救いにはならない。他者に全てを押し付けて笑っていられるほど、下田は強くなかったから。
人との距離を縮めれば、それだけ関係性は変わってゆく。
深く、深く。繋がりは強く。
相手の人生の一部に組み込まれた、相手が思う自分という存在。
自分が思う自分とは違う。相手にとって理想の、都合の良い存在。
長ければ長いほど、そのかたちは安定して、変えづらくなる。
そして齟齬が生まれたその時は、相手が壊れるか。それとも自分が壊れるか。
あるいは、一緒に壊れるか。
下田は、二度と同じことを繰り返さないと誓った。
誰も壊れない方法——即ち、誰からも距離を置くという選択をして。
***
全てがどうでもよくなっていた。
あの書き込みを見た翌日から全く学校に行く気が起きなくなってしまった下田は、ソファから動けずにいた。あらぬ噂を流されたって別に関係ない。実際にあった最悪な出来事がもう既に言いふらされている可能性だってあるのだから。
それならそれでいいだろう。そういう人生なのだ。あの日選択を誤った自分の責任だ。
どうにも体が重くて、何を食べる気も起きないまま、眠気に任せて目を閉じようとした。
季節はまだ春が始まったばかりだというのに、なんだか肌寒い。ずっと動かずにいたから体が冷えてしまったのだろうか。
——そうではない。
明確に、冷たい冬の風が、肌を撫ぜるのを感じた。みるみるうちに手足の先から凍るように冷たくなっていく。
思わず目を開くが、体は金縛りにあったように動かなくなっていた。
そして、目を開いたことを後悔した。
目の前で微笑むその顔から、目を離すことができなくなってしまったのだから。
「ぁ……」
声を出そうとしても駄目だった。どうにかして身動きを取ろうとするのに、それを許してはもらえない。
スカートがゆらゆらと揺れる。風も吹いていないのに、あの日と同じように。
その口は、音を発さずともはっきりと動いた。
『いっしょにいこう』
「——っ!」
その時、がちゃりと玄関の方で音がした。
瞬きをすると共に目の前にいた”それ”は消えていて、代わりに顔を出したのは。
「東弥? 生きてるか?」
「っ……兄貴……なんで、」
呪いが解けたかのように途端に体が軽くなり、思わず飛び起きる。
兄の暁良が帰ってきたのだ。
必死に絞り出しても出なかったはずの声がいきなり出るようになって、驚きのあまり首元を押さえた。
「風邪でも引いたか?」
ふるふると頭を横に振る。
「なんで、急にうちに?」
「学校から無断欠席って連絡が来たっていうから様子見に来たんだよ。お前と連絡つかないから緊急連絡先の方……母さんに電話が行ったみたいで。俺がたまたま暇だったから良かったけど、何してんの。結構大事になってたみたいだぞ」
時計に目をやる。ちょうど昼休みが終わった頃だろうか。
確か目を閉じたのはまだ朝のはずだったのに。一瞬目を閉じただけに感じていたが、いつの間にか夢でも見ていたのかもしれない。
だが、もしも暁良に起こされなければ、どうなっていたかわからない。
そもそもあれは、本当に夢だったのだろうか。
「大丈夫か? やっぱ具合悪いのか?」
「……いや」
「じゃあなんで連絡しないんだよ。休むにしても連絡くらいしないと駄目だろ。先生たち心配してたってよ」
頭を掻きながら暁良はどこかに電話をかけ始めた。おそらく母親か学校へ代わりに連絡してくれているのだろう。
まだ夢か現実か曖昧な頭で、携帯をもう一度確認した。あれも夢であればいいと思った。
メールは変わらずそこにあって、同じようにURLが記載されている。
ただ、その先へ進んでもあの掲示板へは辿り着けなかった。
正確に言えば、パスワードが設定されていて入れなかったのだ。ページは相変わらず真っ黒のままだが、ヒントも何もないパスワード入力画面だけが表示されている。
パスワードを入力した先には、まだあの投稿が残っているのかもしれない。けれど今下田にそれを確認する術はなかった。
「兄貴、あのさ」
電話をかけ終えた暁良はこちらを振り返る。
「俺の、中学の時のこと、先生は何か言ってなかった?」
「中学? ああ……それはもう気にすんなよ。事故だったじゃんか。 高校、中学同じだった人いないんだろ? 大丈夫って言ってたじゃん」
「バレたかもしれないんだ。てか、知ってるやつ、いたかもしれなくて」
「なに、それで怖くて行けなくなってたの?」
暁良はソファへ座る下田に寄り添うように隣へ来て目線を合わせた。
「東弥、お前別に人殺したわけじゃないんだぞ。あれはお前のせいじゃないし、誰のせいでもない。他の人が聞いたって、お前が殺したなんて誰も言わないよ。第一知らない中学の知らない生徒の事件なんて、悪いけどみんなそこまで興味持たないよ。胸張って生きてればいい。忘れられないのもわかるけど、いつまでも過去に捕らわれてちゃ、一歩も進めないままだぞ」
兄や両親はもちろん詳しい事情を知っている。本当の所どう思われているかわからないが、同級生に責め立てられたり、あれがきっかけでいじめに遭ったりしたわけじゃない。
もしかすると、気にしているのは下田一人だけなんてこともあるかもしれない。
ただ、全ては憶測に過ぎなくて、本当の所はやっぱりわからないから、不安だ。
「そうだ、兄ちゃん一緒に行ってやろうか。だったら怖くないだろ」
「……いいよそんな子供っぽい」
「じゃあ一人で行けるな?」
「……」
「明日行って、嫌だったら行かなくてもいい。二度と行きたくないって言うなら、また母さんと父さんと話し合おう。通信にしたっていいんだから」
兄は自由奔放だが面倒見も良い。昔から、手を引っ張ってくれるのは兄だった。
「……わかった」
暁良の言った通り、明日を最後だと思えばいい。教室で万が一誰かに糾弾されたら、それまでだ。実家へ帰るのもいいかもしれない。また母の手料理を食べて、父と話して、たまに帰ってくる兄を迎える暮らしも悪くないだろう。
最後に忘れた荷物を取りにいくような気持ちで、気軽に。
一年B組と書かれたプレートを見上げて、下田は立ち止まる。
初日と同じだ。あの日は開けられなかったが、今日こそ自分で扉を開けなければならない。
なんてことはない。今日は早めに登校したからまだ生徒は数人しかいないだろう。教室もそんなに騒がしくないような気がする。
それでも、それ以上足が進まない。
「……下田?」
後ろで声がして振り返れば、そこには月守がいた。
「おはよう」
月守は静かに微笑んだ。
「入るの、怖い?」
「……」
「じゃあ、こっち」
月守は下田の手を引いた。
その手の感触が肌の質感ではないことを不思議に思って、月守の手の方を見る。
「お前、その手どうしたんだ」
「え、これ? これ、前からだよ」
「俺が休んでる間に怪我したとかじゃないんだな?」
月守の両腕には包帯が巻かれていた。そういえば普段は袖で手が隠れているから、気付かなかったのかもしれない。
下田はチェーンメールの内容を思い出していた。もうとっくに二十四時間は過ぎてしまっている。『約束を破ると、あなたは呪われます。友だちや、家族、大事な人にまで影響が及びます。』確かそう書かれていた。これから起こる悪いこと全てを結びつけてしまいそうだ。
「心配してくれたの?」
「いや、その……」
まさか呪いのせいだと思ったなんてくだらないこと、言えるわけもなく。
「大丈夫だよ。大丈夫」
月守はもう一度ぎゅっと下田の手を握ると、もう片方の手で宥めるように優しく撫でた。
包帯越しに伝わる温度が、随分と温かく感じた。
「おう、待ってたぞ」
海沼がこっちを見てにっと笑った。
月守は何かあるといつも保健室へ行く。海沼に一番心を許しているというのもあるのかもしれないが、下田は改めてここに来て、気付いた。
この場所の空気はどこか違う。温かくて、安心できる場所だった。
海沼が意図的に過ごしやすい空気を作っているのか、あるいは本当に不思議な力が働いているのかはわからなかったが、この部屋へ入った瞬間にふっと肩の力が抜けた気がした。
「水しかないが、とりあえず飲め」
「……ありがとうございます」
「んで、どうだ体調は」
海沼はソファのいつもの定位置で同じように水を飲みながら問う。
月守は海沼の隣へ座った。自然と向き合う形になる。
「体調は、問題ないです」
「体調は?」
「いや、特に含みはなくて」
ぐっと一気に紙コップに入った水を飲み干すと、海沼は目を細めてこちらを見た。
「俺には見えるけどな。お前、耳が垂れてる」
「は……はい?」
「あからさまにしょぼんとするわんこみたいだ」
突然わけのわからないことを言われて拍子抜けしてしまう。
そして海沼はまた、にやっと笑って言った。
「だが良かった。ちゃんと登校できたな」
深入りされたらどう答えようか、迷っていた。少なからず何があって、どうして連絡もせず休んだのか、聞いてくると思ったから。しかし海沼も月守もそれ以上の詮索はしないようで、これからもう少ししたら授業が始まるというのに随分とのんびり寛いでいるようだった。
時計が壊れているのか疑うくらい授業開始ぎりぎりになって、月守はやっと声を上げる。
「そろそろ行こっか」
「……」
ぎりぎりまでここにいたのは、二人の計らいだったのだろうか。だとすればどうしたって、教室までは行かないとならない。
横に置いた鞄をぎゅっと握りしめて頷くと、月守はいたずらが成功した子どもみたいに笑って言った。
「サボっちゃおっか。一緒に」
「ようし車出すぞー。あ、くれぐれもうるさいせんせー方にはバレないようにな」
「は? ちょ、待ってください、どういうことっすか」
「わからないか? 授業が始まればみんなそっちに集中するから気付かれにくい。教師陣もそれぞれの教室にバラけるし、敵は少なくなる。それにまず裏口から出て気付くやつはなかなかいないだろうしな」
「いや、そういうこと聞いてんじゃなくて!」
「ボランティアに行くんだよ! 授業よりずうっと楽しいんだから!」
「目的地を聞いたわけでもねえよ!」
あれよあれよという間に海沼の車の後部座席に乗せられて、車は学校を飛び出した。
保健室には外出中の札が下がっている。それに気付かれるのは、もう少し先の話。
「あらぁ羽留ちゃん! 朝からなんて珍しいねえ」
「学校はどうしたの、今日はお休みかい?」
「そうだよ、ちょっとだけお休み!」
「嘘つけ……」
施設に到着して早々、月守はお年寄りたちに囲まれていた。
暖色の光と庭の緑が優しく室内を照らしている。庭へ続く窓から少し離れた机にそこらじゅうの椅子を集めて、月守を囲むように老婦人たちが座っている。
海沼と下田は少し遠くの壁に寄りかかりながら、婦人たちに揉みくちゃにされる月守を眺めていた。
「あいつ、ここでも人気なんですね」
「ああ。クラスでも人気か?」
「まあ基本は。……でも、たまに恨んでるやつもいますよ。いい奴すぎて、妬まれてる」
「……そっか」
白衣のポケットに手を突っ込んだまま、海沼はずっと月守から目を離さずに言う。
「お前は。月守のこと嫌いか?」
「え、……どっちでもないです、別に」
「お前にはどう見えてる」
「……優等生、世話好き、おせっかい。でも、わからない、が一番かもしれないです」
月守のことがわからない。何故いつも自分に構うのか。何故今日、教室に行かずここへ来たのか。何故いつもあんなに優しく笑うのか。
「多分あいつのこと好きだって思ってるやつはいっぱいいるんです。あいつが与えた分の優しさとかを、同じだけ返せるようなやつが。なのにいつも俺なんかにばっかり構ってるみたいで、それが理解できない」
下田が一人でいる時、他のクラスメイトより下田を選んだ。いつも朝一番に挨拶をするのは月守で、放課後最後に挨拶をするのも月守だ。何も聞かずに手を引いて、明るい場所へ連れてくる。一度も授業なんて休んだことないはずなのに、下田のために初めてサボってここまで来た。全部、どうしてそこまでするのか、わからない。
「全部があいつの善意だけでできてるんだと思ってるなら、そりゃあ人間を知らなさすぎる」
「だから、信じられないんですよ」
「なら、月守にも月守なりの理由があるのは、理解できるんじゃないか?」
理由。月守が下田に構う理由。月守が誰にでも優しい理由。
そんなもの、今の下田には想像もつかない。
「……あいつ、俺に恋でもしてるんすかね」
「っだはは!! そりゃいいや!!」
海沼は腹を抱えて笑った。そんなに笑わなくてもいいのに。
「羽留ちゃん、今日はお外の天気がいいねえ。あたし外に出たいよ」
「一緒にいきましょ、羽留ちゃん」
海沼が腹を抱えて大爆笑していると、そんな愉快な声が聞こえてきた。途端、海沼はぴたりと笑うのをやめて慌てて駆け出す。
「あ! ちょちょちょ、たんま! ばあさん、羽留は外はだめなんだよ」
「ごめんね、文子さん」
「あらどうして? お外は気持ちいいわよ」
月守を庇うようにして婦人たちから遠ざけながら、海沼が下田の方を向いて叫んだ。
「下田! ばあさんたち外に連れてってやってくれないか!」
「は……? いや急にそんな」
「大丈夫だから!」
「俺が大丈夫じゃないんすけど」
渋々了承すると、先ほどの月守のように今度は下田が揉みくちゃにされる番だった。
「あなた、羽留ちゃんのおともだち?」
「……あ、はい。そんなところです」
友達という言葉に若干引っかかるが、ここで変に言い訳するのも違うと思って受け入れる。
「あらそお。可愛いわねえ。とっても優しいお顔立ちしてらっしゃる」
「え……?」
「羽留ちゃんの周りには素敵な人がたくさんいるのねえ」
「あのお医者さまもハンサムでねえ」
「そうよねえ」
春の日差しが下田たちを照らして、ぽかぽかと温かい。
「あなた、おなまえはなんておっしゃるの?」
「……下田東弥です」
「東弥ちゃん、素敵ねえ」
「ありがとう、ございます」
ここにある全てのものが、温かく感じた。
まっすぐで、曇りのない言葉。
昨日まで、外に出たら敵ばかりだと思っていたのが馬鹿らしくなるくらい。
自然と口角が上がっていた。
人の優しさには理由があるかもしれない。それでも。
どんな理由があったって、感じたものが本物だと思ってもいい。
そこにあるものを、素直に受け入れてしまえばいい。
中庭と室内を繋ぐ窓の向こう、月守と海沼がこちらを見て手を振った。
下田は少しだけ手を上げて、手を振り返した。
「海沼先生! あなた一体何を考えているんですか!? 生徒二人を勝手に連れ出すなんて!」
怒号が飛ぶ。昇降口から響き渡る声は、各階の教室まで届いたことだろう。
結局一限をまるまる休むかたちになり、二限が始まる頃に学校へ帰ってきた三人を待っていたのは、随分とお怒りの様子の教頭だった。
「課外授業の一環ですよ、実際ためになったっぽいし、いいじゃないですか」
「いいえ何もよくありません! だいたい、先生の留守中にけが人でも出たらどうするつもりだったんですか!」
「連絡くれればすぐ駆けつけますし、そもそもみんな元気だから心配ないっすよ。実際いなかったわけだし。よかったー」
「そういう問題じゃないでしょ!? あなたたちもね、簡単に先生についていっちゃいけませんよ!」
「まーまー、説教なら俺が全部聞きますから。ね? ちょっと栄養足りてないんじゃないですか? 睡眠とか、しっかりとってます?」
海沼は教頭を宥めつつ、下田と月守にしっしと手を振って”逃げろ”と合図した。
二人はゆっくりと後ずさり、一年の教室まで走った。
教室の後方扉まで来たところで、月守は立ち止まる。
授業中のため、廊下はしんと静まり返っている。
「……まだ怖い」
それは下田に問いかける言葉ではない。
「おれもたまに、教室入るのが怖くなるんだ」
「お前が?」
「そうだよ」
扉を向いて話していた月守が、下田の方へ振り返る。
「どうしても学校に行きたくない日もある。どうしようもなく、周りが怖くなる日がある。だけど、先生が教えてくれたんだ。とにかく胸を張っていればいいんだって。悪いことしたわけじゃないんだから」
「……いや、悪いことした帰りだろ」
「ふふ、教頭先生、すごく怒ってたね」
月守はくすりと笑って、また向き直った。
「でもね、何も悪いことをしてきたわけじゃないでしょ? サボるのは、それはいけないことかもしれないけど……。だけど、施設のみなさんと話してた時の下田、すごく楽しそうだったよ」
「……」
思わず顔を逸らしてしまう。それでも月守は下田の目を見て、言葉を繋ぐ。
「たまに、少しの息抜きくらい、したっていいんだよ。しなくても楽しいなら、その方がいいけど。だけど息をするのすら大変な人がいる。生きてるだけで、苦しいことって多分いっぱいある。そういう時に息抜きをするのって、悪いことじゃないと思うんだ」
少しだけ、月守の人間性を見た気がした。
臆病で、不器用で、億劫になることだってある。
完璧な人間なんていない。それなりにできないことはあって、それがまだきっと見えていないだけ。
今日、月守が自分を誘ったのもなんとなく納得がいった。
「もしかして、お前も逃げたかったのか?」
「……うん」
月守は照れくさそうに笑った。
何故、なんてわからない。そういう気分の日もあるかもしれない、それだけだ。
「行こ? サボっちゃった分、今日は頑張らないと!」
扉に手をかけて、月守は躊躇いなく開いた。胸を張って、前を見て。
「お、月守。もう体調はいいのか?」
「はい、もうすっかり」
「下田も」
「あ、はい」
とはいえやはり、抜かりはないようで。
しっかり教師にことわりをいれておいた月守のおかげか、特に何を言われるでもなくしれっと授業に戻ることができた。
クラスの注目はどちらかといえば月守にいっているようで、これも計算だとするのならなるほど、人よりは完璧に近い存在なのかもしれない。
注目を集める月守を横目に自席へ着くと、佐久間がこちらへ身を乗り出してきた。
「なあ、メール見た?」
佐久間は下田や月守が一限を休んだことも、下田が無断欠席した件にも特に触れることはなく、どうやらあのメールのことだけが気になっているようだった。
「あれ、やっぱりお前だったのか」
「そうだよ、で? どうだった?」
「どうも何も、チェーンメールだってすぐにわかったから読むまでもなく捨てたよ」
「は!? え、最後まで読まなかったのか!?」
本当はまだメール自体は捨てずに取っておいてあるが、これ以上あの件に関わりたくはなかった。
「迷惑だからああいうくだらないことに巻き込まないでくれ。お前も簡単に騙されるなよ。あんなのすぐわかりそうなもんだろ」
「いや、騙されたとかじゃねーんだけど……っはあ、なんだよ、まあいいや」
佐久間は心底つまらないといった表情で大人しく前に向き直った。
掲示板の書き込みは確かに自分の過去に当てはまるものだった。しかし、個人名が出ていたわけではないし、今どんな心配をしたところで状況が変わるわけではない。
もしかしたら誰かの悪ふざけにたまたま当てはまっただけかもしれない。
顔も名前も何もわからない相手に怯えて、真に受けているなんて馬鹿らしい。
それよりかはまだ、月守や海沼や兄の言葉を当てにしてみる方がましだと思ったのだ。
メールも本当に消してしまおう。胸を張って生きるために、あれは必要ないものだから。
「……兄貴? いるのか?」
家へ帰ると電気が点けっぱなしになっていた。てっきりまだ兄が家にいるのかと思って声をかけるが、返事が返ってくることはない。
代わりに机の上にお得用と書かれたビーフジャーキーが乗っかっていた。
下田の好物だ。きっと兄が置いて帰ったのだと思ってありがたくいただくことにする。
「……うまい」
今日は好物尽くしにしよう。久しぶりに米を炊いて、たらふく夕飯を食べて早く寝よう。
明日も学校へ行くのだから。
そうとなればと夕飯の献立を考えているうちに、メールを本当に消してしまおうとかそういったことはすっかり頭から抜け落ちていた。
嫌な夢のことも、呪いのことも、綺麗さっぱりと。
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